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この世に生まれてきた意味 [「親鸞とともに」その10]

(10)この世に生まれてきた意味

「わたし」が生きることの主宰者であるという立場で「生きる意味は何か」という問いについて考えてきました。そして得られた結論は、この問いには無理があるということでした。これはないものねだりの不条理な問いであるということです。そこで今度は仏教の立場、すなわち「生きる」ことは「わたし」〈に〉に起こっているが、「わたし」〈が〉起こしているのではないという立場で「生きる意味」について考えてみましょう。その場合、問いは「何のために生きる」とか「なぜ生きる」という形ではなく、「この世に生まれてきた意味は何か」、あるいは「生きる」ということばをつかうとしても、「いま生きていることにどのような意味があるか」という形になります。

「わたし」が生きることの主宰者であるとしますと、「生きる意味」の問いはおのずから「これから」のことを問うことになります、「何のためにこれから生きるか」、「なぜこれから生きるか」と。それに対して「わたし」が生きることを起こしているのではないとしますと、「生きる意味」の問いは「もうすでに」のことを問うています、「この世に生まれてきたことにはどのような意味があるのか」、「いますでに生きていることにはどのような意味があるのか」と。

そして大事なことは、主宰者としての「わたし」が「生きる意味」を問うのは、「何のために生きるのか」、「なぜ生きるのか」が見いだせなくなり途方に暮れているときであるのに対して、生きることの主宰者ではない「わたし」が「生きる意味」を問うのは、「この世に生まれてきた」こと、「いま生きている」ことを「ありがたい」と思っているからだということです。前者は「生きる意味」がないことを嘆いて出てくる問いであるのに対して、後者は「生きる意味」があることを「ありがたい」と思っていることから出てくるということです。

ちょっと先走ってしまったようです。「いま生きている」ことが「ありがたい」というのはどういうことか、これを述べなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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