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浄土への旅 [はじめての『高僧和讃』(その236)]

(15)浄土への旅

 往生とは「浄土へ往くこと」ですが、それは瞬間移動(テレポーテーション)のような点ではなく、浄土へ向かう長い旅ではないかということについて考えているところです。ではこの浄土への旅はいつ始まり、いつ終わるのでしょう。
 これまで信心をえたときに往生の旅がはじまると言ってきました。旅の出発点は「信楽開発の時刻の極促」(信巻)にあると。さてしかし信楽開発とは「その心すでにつねに浄土に居す」と「気づく」ことに他なりません。信心のときに正定聚(仏となる身)となるというのは、より正確に言えば、信心のときに「すでにつねに」正定聚であることに「気づく」ということです。もうずっと前から正定聚であったのに、これまでは全然気づいていなかった。そのことにいま気づいたということ。としますと、浄土への旅は信心のときにはじまるのではなく、もうずっと前から(この世のいのちがはじまったときから)はじまっていたということです。
 信心とはもうすでに浄土への旅のなかにあることに気づいたにすぎません。浄土への旅そのものははるかな昔から続いているのです。
 さてしかし、その気づきがありませんと、つまり信心がありませんと、浄土への旅なんてどこにも存在しません。「あなたはもう浄土への旅のなかにあるのですよ」と言われても、「何を言っているんだ」としかなりません。浄土への旅はそれに気づいてはじめて存在するのです。その意味では信心のときが浄土への旅のはじまりと言わなければなりません。浄土への旅は信心によってはじまるのではありませんが(信心よりずっと前からはじまっているのですが)、信心においてはじまるのです(信心においてその姿を見せるのです)。
 では浄土への旅はいつ終わるのか。それはこの世のいのちが終わるときでしょう。和讃で「浄土にかへりたまひにき」と言われているのがそれです。浄土へ往く旅を続けてきたのですが、ついにそれが終わりをつげ、浄土へ還りついたということです。

タグ:親鸞を読む
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