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臨終まつことなし [『教行信証』精読2(その101)]

(14)臨終まつことなし

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)。
 ここに親鸞の生きた経験が語られていますが、親鸞にとってこの摂取不捨の利益にあづかるという経験こそ往生であり、それ以外に往生はありません。往生という文字は「浄土へ往き生まれる」ことを示し、ここを離れて、こことは別のどこかへ往くことをイメージさせますが、親鸞の体験した往生は、むしろ何かが向こうからここにやってきて、それが自分を摂取してはなさないということです。浄土とはこことは別のどこかにある世界(アナザーワールド)ではなく、本願名号のはたらきとして「いまここに」届いているのです。あるいはこう言うべきでしょう、いまここに届いた本願名号のはたらき(本願力)が「場」として表現されたものが浄土であると。
 浄土を無量光明土と言いますが、それは、こことは別のどこかに光明無量の世界があるということではなく、いまここに届いた本願名号の無量光が浄土であるということです。
 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(『末燈鈔』第1通)ということばにも自身の経験からくる確信が語られています。信心のときに摂取不捨されること、これが往生であり、もうこれ以上に何が必要かと言っているのです。臨終を待ち、来迎をたのみとするのは、いまここで本願名号に摂取不捨されたという思いがないからだと言わなければなりません。だからこそ、こことは違うどこかにある浄土にいつか往くことを待ち望むことになるのです。
 「いまだ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し、来迎をもまたせたまふべし」(『末燈鈔』第18通)と言うしかありません。

タグ:親鸞を読む
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