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親鸞の手紙を読む(その102) ブログトップ

第3段本文 [親鸞の手紙を読む(その102)]

(9)第3段本文

 最後の第3段です。

 つぎに、念仏せさせたまふひとびとのこと、弥陀の御ちかひは煩悩具足のひとのためなりと信ぜられ候ふは、めでたきやうなり。ただし、わるきもののためなりとて、ことさらにひがごとをこころにもおもひ、身にも口にも申すべしとは、浄土宗に申すことならねば、ひとびとにもかたること候はず。おほかたは、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたく候ひながら、往生を疑はずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も申すことにて候ふに、かかるわるき身なれば、ひがごとをことさらに好みて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしと申すことは、ゆめゆめなきことなり。弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがごとを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。よくよく御はからひども候ふべし。なほなほ念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じとかせたまふべし。あなかしこあなかしこ。

 (現代語訳)次に、念仏しておられる人々のことですが、弥陀のお誓いは煩悩具足の人のためであると信じておいでになるのは結構なことです。ただ、悪いもののためと申しても、ことさらに間違ったことを心にも思い、身にも口にもしていいというのは浄土宗の教えではありませんから、人々にそのように言うべきではありません。煩悩具足の身として、してはいけないと思いながらそれを止めることができないのだから、往生は疑いなくできると思えばいいと師や善知識が言われているのに、悪い人間だからといって、ことさらに間違ったことをして念仏の人々の障りとなったり、師や善知識の罪が問われることになるようなことはゆめゆめあってはなりません。弥陀のお誓いに遇いがたくして遇うことができ、その御恩に報いなければならないと思わなければなりませんのに、念仏を停止させるのに手を貸すようなことをしているというのは、何とも納得のいかないことです。浅ましいことです。まちがってお考えになっておりますから、あるはずのないようなことが起こってくるのです。何とも申しようがありません。ただし、念仏をしている人がまちがったことを言いましたら、その人は地獄に落ちたり、天魔となったりもするでしょう。しかし、それがすべての念仏者の罪となるとは思いません。よくよくお考えになってください。なお、念仏しておられる人々によくよくこの手紙を読み聞かせてやってください。謹言。

 造悪無碍の問題が取り上げられていますが、それについてはすでに第7回で考えましたので、ここはただ読むだけにとどめましょう。

                (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
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