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内に虚仮を懐いて [『教行信証』「信巻」を読む(その47)]

(6)内に虚仮を懐いて


 そこから、つづく文「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」の訓点のつけ方も普通とは違ってきます。普通に読みますと「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」となり、外にはいかにも真実心があるかのように見せかけて、内には虚仮の心を懐くようなことがあってはなりませんという意味になり、これまたきわめて常識的な訓戒です。ところが親鸞は「得ざれ(不得)」を途中の「賢善精進之相」までとして「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」と切り、「内懐虚仮」は次の文につづけて「内に虚仮を懐いて(貪瞋・邪偽・姧詐百端にして悪性やめがたし)」と読むのです。外に向かって真実心があるように見せてはいけませんと言い、なぜなら内には嘘偽りが渦巻いているのですからと言うのです。


普通の読みでは、内に虚仮の心を懐いてはいけませんと訓戒することになりますが、親鸞の読みでは、内は虚仮の心ばかりでどうしようもありませんとなります。われらには真実の心など薬にしたくてもないとにべもありません。そう言えば第十八願の「至心」について親鸞はこう言っていました、「〈至心信楽〉といふは、〈至心〉は真実と申すなり。真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり」(『尊号真像銘文』)。われらには「もとより真実の心なし、清浄の心なし」という見方において親鸞には一分のブレもありません。その最たるものが『歎異抄』「後序」に紹介されている次のことばです、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」。


ここから「自力無功」という結論が出てきます。自力とは「わが身をたのみ、わがこころをたのむ」(『一念多念文意』)ことですが、たのむ「わが身、わがこころ」が「みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」ですから、その結果もまた「まことあることなし」と言わざるを得ません。





タグ:親鸞を読む
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