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淳、一、相続 [はじめての『高僧和讃』(その94)]

(14)淳、一、相続

 まず他力の信が「淳」であるとはどういうことでしょう。淳という文字は、淳朴とか淳風というようにつかわれ、「すなお」、「まじりけがない」、「ありのままでかざりけがない」といった意味です。向こうからやってきたそのままで、そこにぼくらの側から何の作為も加わっていないということ。親鸞がよくつかうことばで言いますと、「はからいがない」ということです。ぼくらはともすれば信というものを、こちらから何かをつけ加えるとイメージしてしまいます。向こうからやってきたものを慎重に吟味し、その上で「信」というハンコを押すというように。しかし他力の信が「淳」であるとは、やってきたままということです。やってきたということそのものが信です。
 だからこそ他力の信は「一」です。決定(けつじょう)しています。これは状況に左右されないということでしょう。もし信というものが、向こうからやってきたものをぼくらが吟味し、その上でハンコを押すということでしたら、一時は信のハンコを押したものの、状況が変化しますと足元がグラついて不信のハンコを押すことになるかもしれません。こんなふうにフラフラするのが普通でしょう。順境にあるときはいいものの、逆境におかれて苦しみのなかにありますと、腰がふらついてくる。しかし向こうからやってきたままの信でしたら、どんな境遇にあろうとフラフラすることはありません。むしろ逆境におかれたときこそ、いつもこころのなかにある信はそのひかりを増すと言わなければなりません。
 かように、他力の信はいつもこころのなかで「相続」しています。いつもいつも意識しているということではありません。ぼくらは「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず」(『一念多念文意』)ですから、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」が起こったときは他力の信を忘れています。でも他力の信が消えたわけではありません、間違いなくこころのなかに「相続」しています。その証拠に、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」が起こったすぐあとで、「いかん、いかん」と頭を振りながら、忘れていた他力の信を思いだすのです。

タグ:親鸞を読む
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