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『歎異抄』ふたたび(その1) ブログトップ

はじめに [『歎異抄』ふたたび(その1)]

            第1回 耳の底に留むるところ

(1)はじめに

 「『歎異抄』ふたたび」と銘打ちましたが、正確に言いますと、「『歎異抄』みたび」となります。初回は2008年で「『歎異抄』から現代を読む」というタイトルで1年半かけて『歎異抄』をくまなく読み、二回目は2016年に「『歎異抄』を聞く」と題して1年かけ前半の「御物語(親鸞の語録)」を中心に読みました。で、今回は三回目となるわけで、もうしゃべることは尽きたのではないかと言われるかもしれません。
 しかし、考えてみますと、ぼくの話は「他力」というただ一つのことを巡ってグルグル回っているわけで、どの講座でも似たり寄ったりのことを繰り返し巻き返ししゃべっているとも言えます。ただ、まったく同じことをオームのようにくり返しているのではありません(それでは誰よりもぼく自身がちっともおもしろくありません)。たとえわずかでも気づきが深まっているはずで、そこを感じていただけるよう精進したいと思います。
 さて『歎異抄』ですが、この書物は大きく二部に分かれます。第一部は親鸞が語ったことばの記録(「故親鸞聖人の御物語」)で、第二部は親鸞の教えに反する考え(「上人の仰せにあらざる異義ども」)に対する著者の批判になります。タイトルの「歎異」とは「異なることを歎く」(序)ということですから、この書物の主な狙いは後半にあると言えます。ただ今日のわれらからしますと、親鸞のことばが伝えられていることの方がありがたいのですが。
 では誰がこの書物の著者かということですが、唯円という親鸞晩年の弟子であるのはまず間違いのないところです(本文を読むことでそれははっきり確認できます)。常陸の河和田(かわだ、今の水戸)の出身ですが、晩年の親鸞の近くにあって、その教えを直に聞くことができた人だろうと思われます。で、親鸞がなくなって時間が経つとともに親鸞の教えがねじまげられて伝えられるようになります。直に教えを聞いた人たちも少なくなっていくなかで(おそらく唯円はその最後の人でしょう)、この状況をそのままにしておくわけにはいかないとあえて筆をとった(「なくなく筆を染めてこれをしるす」)というわけです。

タグ:親鸞を読む
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