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洲渚の譬え [「信巻を読む(2)」その43]

(8)洲渚の譬え

親鸞講座のなかでこんな質問が出ました、本願は一度それに気づけば、もうなくなってしまうことはないのでしょうかと。本願の気づきが信心に他なりませんから、この質問は信心は一旦おこればもう消えることはないかということです。ぼくはこうお答えしました、「本願に気づいても、それをどこかに置き忘れてしまうことはあると思います。たとえば、つまらないことで無性に腹を立てているようなとき、本願のことはどこかにいってしまっています。でも本願の気づきそのものが消えることはありません、それはまもなく戻ってくるでしょう」と。これを『涅槃経』の「洲渚の譬え」でいいますと、河のなかの洲渚は激流のなかでときに水中に没してしまっても、いずれ水の上に姿をあらわすように、本願の気づき(信心)はときに煩悩の激流のなかに没しても、激流がおさまるとともにまた姿をあらわすということです。

しばしば引き合いに出される親鸞のことばがあります(「信巻」のもう少し先に出てきます)。「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべしと」というものです。親鸞はもうすでに「定聚の数に入」っていること、「真証の証(仏の悟り)に近づ」いていることに気づいています。それにもかかわらず「愛欲の広海に沈没し」、「名利の大山に迷惑し」ていると慨嘆しているのです。このように煩悩の海に沈没していることに気づくこと(機の深信です)は深い悲しみですが、しかし忘れてならないのは、その気づきがあるとき、同時にすでに信心の海に入っていることに気づいていて(法の深信です)、そこには深い慶びがあるということです。深い悲しみと深い慶びはひとつになっているのです。

煩悩が消えて菩提があるのではありません、煩悩があって菩提があるのです。これが煩悩即菩提ということです。


タグ:親鸞を読む
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