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もし人ありてよく菩提心を発せん [「信巻を読む(2)」その122]

(13)もし人ありてよく菩提心を発せん

阿闍世の語を受けて、釈迦が阿闍世をほめます。

その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまはく、〈善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発(ほっ)せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆(だいしゅ、説法の場に集まった人たち)を荘厳(しょうごん、麗しく飾る)すとす。大王、なんぢ昔すでに毘婆尸仏(びばしぶつ、過去七仏の第一)のみもとにして、はじめて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これよりこのかた、わが出世に至るまで、その中間(ちゅうげん)においていまだかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王まさに知るべし、菩提の心、いましかくのごとき無量の果報あり。大王今より以往(これから先)に、つねにまさにねんごろに菩提の心を修すべし。なにをもつてのゆゑに。この因縁に従つてまさに無量の悪を消滅することを得べきがゆゑなり〉と。その時に、阿闍世王および摩伽陀国の人民こぞって座よりして起(た)ちて、仏を繞(めぐ)ること三帀(さんぞう、右回りに三周すること)して、辞退して宮に還りにき」と。以上抄出 

先に、『涅槃経』で第一義諦と言われるものは、親鸞にとっては弥陀の本願であると述べましたが、ここで菩提心と言われるのも、親鸞的には本願の信心と理解するべきでしょう。最初に「善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆を荘厳す」と言われるのは、もし人が本願の信心(気づき)を得ることができれば、諸仏だけでなくその場にいる人たちみなを喜ばせるだろうということです(『大経』で言いますと「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなはちわがよき親友なり」ということです)。

さてここで言われているのは、阿闍世のように「いま」本願の信心を得ることができた人は、実はもうずっと昔に(「すでに毘婆尸仏のみもとにして」)それを得ているのだということです。これをどう理解すればいいのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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