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是非しらず(結讃2) [親鸞の和讃に親しむ(その120)]

(10)是非しらず(結讃2)

是非しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり(第116首)

是非善悪をしらずして 慈悲のこころもないままに 名利ばかりをもとめつつ 人師をこのむ愚かさよ

『正像末和讃』最後の一首です。したがって『三帖和讃』の最末尾にくる和讃です。そこに「小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむ」自分自身をさらけ出さざるをえないところに親鸞という人の何とも言えない性を見る思いがします。名利とは名聞・利養ですから、名誉を求める心と利益を求める心を指し、もうわれらのあらゆる欲がそこに凝縮されていると言えます。そのことはわれらが自分の名誉(プライド)が傷つけられたり、自分の利益が損なわれるようなことがあると、身も世もなく嘆き悲しむことにはっきりあらわれます。親鸞に倣い、ぼく自身の高校教師時代のもっとも醜く嫌な思い出をさらけ出しておきましょう。

最後の転任校となったのが、県下でももっとも荒れていた高校でした。風の便りにそのひどさを聞いてはいましたが、行ってみますとその実態は想像をはるかに超えるものでした。まともに授業をさせてもらえず、教室内は混乱の坩堝です。教師としてのプライドはものの見事にズタズタにされてしまいました。ぼくにとってはしかし、そのことそのものよりも、その惨状が人目にさらされることの方が苦痛でした。天気のいい日はカーテンを引きますから外から隠されるのですが、薄暗い日などは電気をつけて中の様子が丸見えになるのです。ぼくの力の無さが天下にさらされるように感じられ、身が切られるような苦しさでした。そのとき、ぼくにとって何が大事かがはっきり目の前に突きつけられたのです、それは世間体であり、見栄であると。ぼくは何とかしてこのしがない「わたし」を周りからよく見られるようにしたいとその一点に力を注いでいたのです。

名利を守るとは「わたし」を守ることです。そして「わたし」を守ることは自由を守ることです。しかしこの自由を守ろうとすることが究極の束縛になっていることが明らかになったのです。

(第12回 完)


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