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よびごえが聞こえる [「親鸞とともに」その36]

(4)よびごえが聞こえる


 この三文のなかでとりわけ注目すべきは第十八願成就文で、「その名号を聞きて信心歓喜せん(聞其名号信心歓喜)」という言い回しに、名号を聞くことがそのまま本願を信じることに他ならないことがよくあらわれています。「その名号を聞きて」の「その」は、すぐ前の文、「十方恒沙(ごうじゃ、ガンジス河の砂のように無数)の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ」を受けており、この無量寿仏を指して「その」と言っているのです。この文は第十七願の成就文に当たり、すぐ前のところで四十八願のなかで唯一「名号を称える」とあるのが第十七願だと言いましたが、その願の成就文です。第十七願を上げておきますと「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめる)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」とあります。


以上から了解できますのは、弥陀の名号を称えるのは「十方無量の諸仏」であり、その声をわれらが聞くということです。


ここで一言。「名」を漢和辞典で引きますと、夕と口とを合わせて、夕方のうす暗いときに、自分の名を名のって、自分がここにいると告げる意味をあらわす」とあります。これで見ますと、名には、それを名のるという意味が含まれていることが分かります。つまり阿弥陀仏の名は、それ自体が阿弥陀仏の名のりであり、「われはここにあり」と告げることであるということです。としますと、名はそれ自体が称名であるということになります。ただ阿弥陀仏の場合、阿弥陀仏自身が名のりを上げるのではなく、「十方無量の諸仏」が阿弥陀仏の名を称えるということです。すなわち「十方無量の諸仏」が「阿弥陀仏のもとへ帰っておいで」とよびかけ、そのよびごえがわれらに聞こえるということになります。


さて、いま問題としているのは、「帰っておいで」というよびごえが聞こえることが、取りも直さずそれを信じることであるということ、これです。普通には、何かが聞こえることとそれを信じることは別であり、何かが聞こえてきますと、それは信じるに値するものかどうかを吟味した上で信じることになるものです。ところが弥陀の名号は、それが聞こえてくること自体がそれを信じることであるというのですから、これは常軌を逸していると言わなければなりません。



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