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他の善も要にあらず、悪をもおそるべからず [『歎異抄』ふたたび(その43)]

(10)他の善も要にあらず、悪をもおそるべからず

 「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」ということばは、もう「善をなそう」とか「悪をさけよう」などと思いはからう必要はなく、ただ本願に身を委ねて生きればいいと言っているように見えます。しかし、完全に隠遁生活に入るなら話は別ですが、実際に社会生活を営もうとすれば、「これはなすべきか、なさざるべきか」という選択を次々と迫られることになり、否応なく善悪について思いはからわざるをえません。では「他の善も要にあらず」、「悪をもおそるべからず」とは何を言っているのか。
 「他の善も要にあらず」の前に「本願を信ぜんには」とあり、そして「悪をもおそるべからず」には「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」と添えられていることが鍵となります。
 すなわち本願を信じ念仏するのに善悪のはからいが必要ではないと言っているのです。善悪を思いはからうことによって本願を信じ念仏することができるわけではないということです。たとえどれほど善を積もうと、それによって信心念仏を得ることができるわけではなく、たとえどれほど悪をなそうと、それによって信心念仏がさまたげられることはありません。本願の信心念仏はわれらが自分の力で得るものではありません、ひとえに本願から与えられるものですから。
 さてしかし本願の信心念仏が与えられたあかつきにはどうか、そのときも「他の善も要にあらず」、「悪をもおそるべからず」でしょうか。もう明らかでしょう。「こんな悪人がそのままで救われる」ことに気づいたのですから(これが本願の信心であり念仏です)、おのずから「できるだけ善をなそう(衆善奉行)」、「できるだけ悪をさけよう(諸悪莫作)」という思いがこみ上げてくるに違いありません。これが八正道を歩むということであり、正定聚不退の道を歩むということです。
 本願念仏の教えは倫理を否定するどころか、倫理を下支えしているのです。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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