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『観経』という経典 [「『正信偈』ふたたび」その90]

(2)『観経』という経典

韋提希夫人は釈迦に「やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩(うのう)なき処を説きたまへ」と訴え、釈迦から無量の諸仏の国土を示されて、「われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽(ねが)ふ」と述べます。かくして釈迦は韋提希のために阿弥陀仏とその浄土を観るための方法を説いていくのです。『観無量寿経』はその名のごとく、阿弥陀仏とその浄土を「観る」ことを説く経典であり、日想観からはじまって十三の観法が説かれていきます。これを善導は「定善」と言います。それで終わりではなく、そのあとに精神を統一することなく散心のままさまざまな善を修することで往生できることが上品上生から下品下生までの九品に分けて説かれます。これを善導は「散善」とよびます。

では念仏の教えはどこにあるのかと言いますと、経典の最後のところで下品のための法として念仏が説かれるのです。下品とは定善はもちろん散善もなしえない悪人ですが、そんな人も南無阿弥陀仏と称えることでこれまでの罪が除かれ往生できるとされます。さてこのようにまとめますと、この経典は定散の二善、とりわけ定善を修めることにより往生できることが説かれているのであり、念仏はいわばおまけのようなものにすぎないということになります。慧遠や吉蔵たち注釈家はみなそのように理解したのですが、善導はこの見方を根本からひっくり返し、この経典の本質は最後に出てくる念仏の教えにあると言うのです。その最後のところに立ってもう一度全体を見直せばまったく異なる見方が生まれてくるということです。

善導がこのような見方をする最大の根拠は経の結論部(流通分(るずうぶん)とよばれます)に「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」とあることにります。善導はこの文を注釈してこう言います、「まさしく弥陀の名号を付属して、遐代(後の世)に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意(こころ)、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。これまで定散二善が説かれてきたが、仏の真意は念仏の教えを説くことにあるというのです。これが善導ひとり仏の正意を明かせり」と言われていることです。


タグ:親鸞を読む
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