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一切衆生悉有仏性 [『教行信証』「信巻」を読む(その117)]

(9)一切衆生悉有仏性

この文は、菩薩には「四無量心」と「大信心」と「一子地」という仏性がそなわっており、一切衆生もまた「つひにさだめてまさに(いつかからならず)」それらを得ることになるから、「一切衆生悉有仏性(一切衆生に悉く仏性あり)」であると説いています。このことばは明らかに「自力のこころ」から発せられています。すなわち大乗の菩薩は自利を求めるだけでなく、利他の心をもつべきであり、また一切衆生も「ついにさだめてまさに」そのような自利利他円満の境地に至ることができるであろうという趣旨ですが、親鸞がこれを引いているのは「他力のこころ」からであるのは言うまでもありません。

すなわち、ここで菩薩と言われているのはわれらのことではなく、法蔵菩薩であり、したがって「四無量心」も「大信心」も「一子地」もみな法蔵菩薩に仏性としてそなわっているということです。そしてそれら法蔵の仏性がわれらに回施されることから、「一切衆生、つひにさだめてまさに」仏性ありということになると読んでいるのです。ここに繰り返し出てくる「一切衆生悉有仏性」ということばは、一切の衆生にもともと仏性が具わっているということではありません、仏性は如来から回施されて一切衆生のもとにやってくるということです。前にも引き合いに出しましたが、親鸞はそのことを「仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」(『唯信鈔文意』)と述べています。

前に、われらの心は疑いに濁っているが、そこに如来の澄みきった心(チッタ・プラサーダ、信楽)が回施されたとき、われらの「濁った心」が「澄んだ心」に変わるわけではないと述べました。むしろ「濁った心」が「濁った心」であることがはっきり意識されるようになると(5)。ここで再びそのことを確認しておかなければなりません。仏性が如来からわれらに回施されるのですが、そのことでわれらの心が煩悩の心から仏性の心になるのではないということです。むしろわれらの心は煩悩の心であることが満天下に明らかになるのです。「一切衆生悉有仏性」の裏側には「一切衆生悉有煩悩」が貼りついているということです。


タグ:親鸞を読む
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