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信心すなはち一心なり [親鸞の和讃に親しむ(その47)]

(7)信心すなはち一心なり

信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり(第19首)

信心すなわち一心で、一心すなわち金剛心。金剛心は菩提心、これみな他力に他ならず

「信心すなはち一心なり」と言われている「一心」は、天親が『浄土論』の冒頭で「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と述べている「一心」のことです。「一心」とは普通、ふたごころなく、ただひたすら、といった副詞の意味で受け取りますが、親鸞はこれを「信心」をあらわすと見ているのです。すなわち、信心とは「わたしのこころ」と「ほとけのこころ」が「ひとつのこころ」になることです。こちらに「わたしのこころ」があり、あちらにある「ほとけのこころ」を信じるというのではなく、もう「わたしのこころ」と「ほとけのこころ」が一体となって切り離すことができないということです。もし両者が別でしたら、いつでもその間に疑いが忍び込む可能性がありますが、両者は一心ですから、もはやどんな疑いも入り込む隙間がありません。

これが「一心すなはち金剛心」ということです。

さて「わたしのこころ」と「ほとけのこころ」が「ひとつ」になると言っても、「わたしのこころ」が「ほとけのこころ」に融解して無くなるということではありません(それは文字通り仏になるときでしょう)。「ひとつ」になるとは、「わたしのこころ」が「わたしのこころ」のままで「ほとけのこころ」のなかに包みこまれているということです。しかもそれは、あるとき突然包みこまれるということではありません、もうずっとむかしから包みこまれていたことにあるときはたと気づくのです。これまでは、ひたすら「わたしのこころ」しかありませんでしたが、「わたしのこころ」はそのままで「ほとけのこころ」に包みこまれていると気づく、これが信心です。この信心=気づきは「わたしのこころ」に起りますが、「わたしのこころ」が起こすことはできません。それは「ほとけのこころ」から起こされるのです。

これが「この心すなはち他力なり」ということです。


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