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三心一心問答 [『教行信証』「信巻」を読む(その10)]

(10)三心一心問答


もういちど「体」と「力用」を持ちだして再説しますと、弥陀の本願はここではないどこかに存在する「体」ではありません、いまわれらの身の上に生き生きとはたらきかけている「力用」です。もし弥陀の本願がどこかにある「体」であるとしますと、それとそれを信ずるわれらの心はおのずから「二つ」になります。しかしそれがいまわが身にはたらきかけている「力用」だとしますと、その「力用」とそれを感じているわれらの心は「一つ」になっています。これが「一心」であり、ここに真実の信心、他力の信心の本質があるということです。


ところで「ことに一心の華文を開く」のあと、「しばらく疑問をいたしてつひに明証を出す」と言われているのはどういうことでしょう。先取りするかたちで少し解説しておきますと、「信巻」前半のハイライトというべき「三心一心問答」のことがここで予告されているのです。三心とは第十八願に出てくる「至心」・「信楽」・「欲生」のことで(「十方の衆生、心を至し(至心)信楽してわが国に生れんと欲ひて(欲生)」)、一心はいま見ました『浄土論』の「一心」です。親鸞が問題とするのは本願の三心と天親の一心との関係で、第一の問いは、本願に三心が言われているのに、どうして天親は一心というのかということです。


親鸞は三心のそれぞれについてその意味を尋ね、それらはいずれも如来回向の信心であることを確認していきます。そして如来回向の信心は、上に見てきました一心に他なりませんから、本願の三心は天親の一心に収まるという結論に至るのです。これで問答は終わりかと思いきや、さらに親鸞は問います、信心は一心に収まるのであれば、どうして本願に三心が出されるのだろうと。詳しくは今後に譲るしかありませんが、ひと言でいいますと、信心=一心を三心に開いてそのありようをより分かりやすく示されているということになります。かくして「しばらく疑問をいたしてつひに明証を出す」と言われましたのは、真実の信心とは本願力回向の信心であり、それは天親の言う一心であることを明らかにしたということです。


本願により信心が開かれるが、同時に、信心をおいて他に本願はないということ、これが一心です。


                                                (第1回 完)



タグ:親鸞を読む
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