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仏恩報謝のため [「『おふみ』を読む」その32]

(7)仏恩報謝のため

さて最後の問いは「信心決定してのちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏もうしそうろうべきか、また仏恩報謝のためとこころうべきか」ということです。その答えはもう言うまでもありません、「一念の信心発得已後の念仏をば、自身往生の業とはおもうべからず。ただひとえに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり」となります。この仏恩報謝の念仏は蓮如のトレードマークとも言うべきで、「当流安心のおもむき」を説くときには必ずその最後にこれが出てきます。すでに1・2に「さてこのうえ(信心決定のうえ)には、たとい行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じもうす念仏なりとおもうべきなり」とあり、1・3には「御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもいて、念仏もうすべきなり」とありました。

仏恩報謝の念仏はもちろん蓮如の専売特許ではなく、すでに覚如により強調されたところですし、そのおおもとは親鸞にあります。たとえば『浄土和讃』の冠頭に「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」と詠われています。「信心さだまるとき往生またさだまる」のですから、信心さだまったのちに、往生のために念仏することはありえません。往生さだまったこと、もっと正確にいえば、もうすでに往生がはじまっていることをかたじけなく思い、それに感謝して念仏するのは理の当然と言えます。

ただ、「わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもいて、念仏もうすべきなり」と言われますと、ぼくのなかで違和感センサーが作動しだすのです。また考えすぎだよと言われるかもしれませんが、仏恩報謝<のため>に念仏するのは、浄土往生〈のため〉に念仏するのと本質的に違わないじゃないか、と思ってしまうのです。何のためであれ、何か〈のため〉に念仏するのは、いわゆる「手柄としての念仏」であり、他力ではなくなるのではないかと。


タグ:親鸞を読む
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