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遠く宿縁を慶べ [『ふりむけば他力』(その39)]

            第4章 宿縁と他力

(1)遠く宿縁を慶べ

 縁起と他力はひとつであることを見てきましたが、親鸞の思想のなかでそのことがはっきり見て取れるのが『教行信証』の「序」においてです。
 「ああ、弘(ぐ)誓(ぜい)の強(ごう)縁(えん)、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」とありますが、この「強縁」、「宿縁」ということばで縁起と他力がひとつのものとして表現されています。「弘誓の強縁」ということばは本願他力そのものを指していますが、同時に、それに遇うことができた縁も意味しています。本願他力はそれに「たまたま」遇うことがまことに難しいと言うのです。そして「遠く宿縁を慶べ」は、まさにその本願他力に遇うことができたご縁を慶べと言っているのです。「宿」は「過去の」ということで、「宿縁」とは果てしない過去からのつながりを意味します。目に見えないつながりにより、本願他力に遇うことができたのは何と慶ばしいことかと述懐しているのです。
 さらにこうあります、「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏(せいばん・げっし、ここではどちらもインド)の聖典、東夏(中国)・日域(日本)の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と。ここでも見えない縁によって浄土の経典やその論釈に遇うことができたことを慶んでいますが、親鸞にとって縁起は「たまたま」遇うことができた縁として了解されていることがよく分かります。翻って考えてみますと、われらは「ご縁」という日常のことばで釈迦の縁起の思想をさりげなくつかいこなしていると言えます。「ご縁がありましたら、またお会いできるでしょう」とか「いいご縁に恵まれまして、ありがたいことです」などとごく普通に言いかわしながら、われらは縁起の思想を生きているのです。
 「ご縁」ということばには「たまたま」めぐり遇うという意味が含まれていますが、たまたまのめぐり遇いのなかでも、もっとも印象的なのが赤い糸の導きで運命の人と遇う場面です。そう、前にも一度取り上げました“fall in love”という出来事です。これまで一度もあったことがないのに、「ああ、この人だ、この人と遇えるのをずっと待っていたのだ」と感じる不思議さ、ここに縁起すなわち他力の秘密が顔を覗かせています。

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