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「ほとけの願い」のリレー [「『正信偈』ふたたび」その25]

(5)「ほとけの願い」のリレー

これまで繰り返し「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそり息づいていると述べてきましたが、それは「わたしのいのち」はそのままで同時に「ほとけのいのち」であるからです。ところがそのことにまったく気づくことなく、ひたすら「わたしのいのち」を「わたしのちから」で生きなければと七転八倒してきたのですが、あるときふと「わたしのいのち」は「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに気づきます。はじめて「ほとけのいのち」に遇うことになるのです。この気づきはもちろん「わたし」に起こりますが、「わたし」が起こすことはできません、「ほとけのいのち」に気づかされるしかありません。

しかし見てきましたように、「わたしのいのち」は直接「ほとけのいのち」に遇うことはできず、それは他の「わたしのいのち」を介する他ありません。

ここに釈迦の出番があります。われらは釈迦という「わたしのいのち」を介して「ほとけのいのち」に遇うことができるのです。「ほとけの願い」は直接われらのもとに届けられるのではなく、釈迦を通して送り届けられるということです。ではどうして釈迦は「ほとけの願い」をわれらに届けることができるのかといいますと、もちろん釈迦自身が「ほとけのいのち」に遇うことができ、「ほとけの願い」を聞くことができたからです。しかし釈迦もまた直接「ほとけのいのち」に遇い、直に「ほとけの願い」を聞いたわけではないでしょう。もしそうだとしますと、釈迦はもはやわれらと同じような「わたしのいのち」ではない、何か特別な存在になってしまいます。

これはもうどこにも根拠がありませんが、釈迦もまただれか「わたしのいのち」を介して「ほとけのいのち」に遇うことができたのに違いなく、その誰かもまた同じでしょう。「ほとけの願い」はそのように無数の「わたしのいのち」を介して送り届けられていくとしか言うことができません。『歎異抄』第2章に「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。…」と述べられているのは、この「ほとけの願い」のリレーのことを言っているに違いありません。


タグ:親鸞を読む
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