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つねにわれを照らしたまふ [「『正信偈』ふたたび」その105]

(7)つねにわれを照らしたまふ

さて、次の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼をさへて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなく、つねにわれを照らしたまふといへり」という偈文ですが、源信と言えばこの文句が真っ先に浮ぶほど有名なことばです。親鸞は「正信偈」以外のさまざまなところでもこの名文を取り上げています。和讃にはこうあります、「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」(『高僧和讃』源信讃)と。この文は真実の信心のありようを見事に描き出していると言えます。

この偈文で見ておきたいことの第一は、その前に「極重の悪人はただ仏を称すべし」という句があり、そして「大悲、倦きことなく、つねにわれを照らしたまふ」と言われているという順序です。ここでも「われらはみな極重の悪人である」という「機の深信」がまず出てきて、次いで「大悲はその悪人をつねに照らしてくださる」という「法の深信」が出てくるのです。そのように説くことにより、ものうきことなくわれらを照らしてくださる大悲のありがたさが身に染みることになります。

次にこの偈文の構造ですが、最初に「わたしは弥陀の光明に摂取されている」ことが端的に事実として出されます。次いで「しかしその光明を見ることはできない」ことが言われ、最後に「にもかかわらず、わたしはその光明につねに摂取されている」と締めくくられています。このように、二重の逆説により、最初の結論に戻っていくという形になっているのですが、そうすることで、弥陀の光明は見ることはできないけれども、間違いなくわたしを摂取していることが強調されていると言うことができます。

さてしかし、光明を見ることができないというのに、どうして間違いなく摂取されていると言うことができるのでしょう。答えはただ一つ、「見る」ことはできないが、「感じる」ことができるからです。弥陀の光明は、普通の光とは異なって、それを見ることができず、ただ感じることができるだけということです。


タグ:親鸞を読む
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