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来生の利益は [「信巻を読む(2)」その23]

(10)来生の利益は

それぞれの利益の意味に立ち入ることはしません。それよりも大事な三点について述べたいと思います。その一つ目は、親鸞はここで「かならず現生に十種の利益を獲」と言い、来生のことについては触れようとしていないということです。どこか別のところで来生の利益について述べられているかと探しても、どこにもそれらしい記述は見られませんが、これは何を意味するかということを考えておきたいと思うのです。「来生の利益」とはどういう意味でしょう。信心を得ることで現生に十種の利益があるように、来生にも何か利益があるのでしょうか。そもそも来生に利益を得るのはいったい誰でしょう。とうぜん「わたし」ということになりますが、としますと来生にも「わたし」は(かたちは変わっても)存在しつづけるということでしょうか。もしそうだとしますと、これは釈迦の言う「無我(常住の我はない)」と真っ向から抵触します。

釈迦は死後のことについては口を噤みました。これを「無記」と言いますが、死んだ後はどうなるのかとしつこく問うマールンクヤ青年に対して、釈迦はそれには答えず「毒矢の譬え」を持ち出します。汝がしていることは、毒矢を射られたものが、それを射たものの素性をしつこく知ろうとしているようなものだ、いま汝に必要なのはすぐ毒矢を抜くことだと。これは救いは「いま」にしかないということです。清沢満之はそのことをこう言います、「信念(彼は信心のことを信念と言います)の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎日毎夜に実験(実際に経験する)しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳(のぶ)ることは出来ぬ」(わが信念)と。彼にとって「いま」信心に救われていることで十分であるということです。

「いま」すでに「永遠のいのち」のなかで生かされているのであり、死んでから「永遠のいのち」に入るのではありません。ですからそれに気づく(その信を賜る)だけでもう十分ではありませんか、もうすでに「永遠のいのち」のなかで救われているのですから、死んでからのことをあれこれ考える必要があるでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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