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一々のはなのなかよりは [親鸞の和讃に親しむ(その13)]

3.一々のはなのなかよりは

一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし(第42首)

浄土の蓮の華からは、無数の色のひかり出て、月光のごとほがらかに、いたるところを照らしてる

「光明てらしてほがらかに」が印象に残ります。ほがらか(朗らか)とは、月の光の明るさ、清らかさを表し、その光に照らされると心が快活になることを意味します。このことばから、昔の人にとって月の光がどれほどありがたいものだったかがしのばれます。闇夜の道を行く心細さに対して、月の光が煌々と照らす中を歩む安らかさ。浄土はこことは別のどこかにあるのではなく、仏の光に照らされて安らかに歩むそのなかにあります。救いは「いつか、どこかに」あるのではなく、仏の光に照らされ、仏のみなを聞くことができた「いま、ここ」にあります。そして、仏の光に照らされ、仏のみなを聞くのは「ひとたび」(第9首)かもしれませんが、「憶念の心つねにして」(第1首)であり、「仏恩報ずるおもひあり」(同)です。

あらためて思いを致しておきたいのは、この光明が月の光であるとしますと、辺りには夜の帳が下りているということです。「光明てらしてほがらかに」とは言いながら、それは昼の太陽の明るさではなく、全体としては夜の暗闇のなかにあることを忘れるわけにはいきません。われらは煩悩の闇のなかに生きているのです。そこを月の光(仏の光)が照らしてくれる。金子大栄氏はどこかでこう言われていました、月ははるかかなたにあるが、その光はここに届いている、と。仏はわれらの手の届かないところにおわしますが、その光はもうここに来ているのです。とすれば、仏が「いま、ここ」に来ておわすのと「ひとし」と言えるのではないでしょうか。「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、ものうきことなくしてつねにわれを照らしたまふ」(「正信偈」、源信讃)とありますように、仏は遠くて見ることはできなくても、その光が「ものうきことなくつねにわれを照らしたまふ」のですから、それ以上に何を求める必要があるでしょう。


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