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往相と還相 [「信巻を読む(2)」その8]

(8)往相と還相

ところが「願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」という文言は、この構図に重大な疑義を突きつけます。願作仏心とは仏になろうとする心ですから往相であり、度衆生心とは衆生を救おうとする心ですから還相であると言えます。さて願作仏心はそのままで同時に度衆生心であるとしますと、往相は往相のままで還相であると言わなければなりません。しかし往くことがそのままで還ることというのはどういうことか。先ほど言いましたように、往相・還相ということば自体に前と後という意味あいが含み込まれていますから、往くことが還ることというのはどうにもすんなりと咽喉を通ってくれません。

問題の根源は「往生」ということばにあると言わなければなりません。往生とは何か。字書をみますと、「この世の命が終って、他の世界に生まれることをいう」とあり、さらに「浄土思想の発展によって、この穢土を離れてかの浄土に往き生れることをいうようになった」とあります(『岩波仏教辞典』)。往生思想の源は生天思想すなわち来生に天(六道の最上位)に生まれたいと願うことにあったのですが、浄土思想のもとで、天に生まれることも輪廻のなかとされ、輪廻を超えて浄土に生まれることを願うようになりました。しかし往生の根本的な構図に変わりはありません、ここではないどこかへ往って生まれることです。

さてしかし龍樹の空を学んだ曇鸞(浄土の教えに帰す前は四論宗の人でした)がこの構図をそのまま受け入れることができるはずはありません。空とは無生ということですから往生ということばと真っ向からぶつかります。曇鸞はそのことについて、『論註』でこう言います、「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有(三界-欲界・色界・無色界-という迷いの境界)虚妄の生のごときにはあらざることを明かす」と。往生とは「無生の生」であり、われらが普通に考えるような生ではないというのです。曇鸞は虚妄の生のごときものではないとしか言ってくれませんが、「無生の生」とはどういうことでしょう。

「正信偈」に「報土の因果誓願に顕す」とあるのを手がかりに考えてみましょう。曇鸞は浄土の因が本願にあることを明らかにしたというのですが、これはどういう意味か。


タグ:親鸞を読む
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