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源信ひろく一代の教をひらきて [「『正信偈』ふたたび」その99]

第11回 つねにわれを照らしたまふ

(1)  源信ひろく一代の教をひらきて

次は源信です。まず前半4句。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切

専雑執心判浅深 報化二土正弁立

源信ひろく一代の教をひらきて、ひとへに安養に帰して一切をすすむ。

専雑(せんぞう、「専修(せんじゅ)」すなわち「もっぱら念仏のみを修めること」と「(ざつ)(しゅ)」すなわち「様々な自力の行を修めること」)の執心、浅深を判じて、

報化二土(真の浄土である「報土」と方便の浄土としての「化土」まさしく弁立せり。

源信和尚は、釈迦一代の教えを広く学び、ひとえに浄土の教えに帰すべしと一切衆生に勧められました。

『念仏のみ』の専修と『念仏も』の雑修との違いを明確にして、専修によりはじめて真の浄土である報土へ往生でき、雑修では仮の浄土すなわち化土にとどまることを教えてくださいました。

これまでインドの龍樹と天親、そして中国の曇鸞・道綽・善導と、あわせて五人の高僧たちが謳いあげられてきましたが、残るのがわが日本の源信と源空の二人です。

今回取り上げます源信は平安中期の人で(942-1017)、奈良の当麻寺の近くで生まれました。比叡山延暦寺に入山して良源((がん)(ざん)大師の名でよく知られています)に師事し、天台教学を学びますが、その資質は若い頃から秀でていたようで、南都の学僧たちとの論争(応和の宗論)では一躍注目を浴びました。第1句の「源信ひろく一代の教をひらきて」はそのことで、釈迦一代の教えを広く学んだという意味ですが、たとえば彼の主著、『往生要集』という大部な書を読みますと(これを読み通すのはなかなかに大変です)、そこに引用される経論釈の多さ、幅広さに舌を巻きます。

そのように源信はその学問の高さが際立ちますが(『往生要集』は中国でも高く評価されたようです)、あるとき朝廷で仏教を講じ、そのご褒美に絹布を賜ったそうです。源信はそれを故郷の母に送ったのですが、母はそれをよろこぶどころか、諫言の手紙とともに送り返してきました。その手紙には「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世を渡る僧となるぞ悲しき」という歌があり、「まことの求道者となりたまへ」と書かれていました。この一言に恥じ入った源信はそれ以後栄達の道から離れ(比叡山は立身出世の世界でした)、横川に隠棲して求道一筋の生活を送ったと言われます。そして第2句にありますように「ひとへに安養に帰して一切をすすむ」ようになるのです。


タグ:親鸞を読む
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