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『教行信証』「信巻」を読む(その1) ブログトップ

はじめに [『教行信証』「信巻」を読む(その1)]

第1回 信とは何か


 (1) はじめに


  「『教行信証』精読」シリーズの第3回目となります。第1回目は「総序」と「教巻」と「行巻」の途中(いわゆる「六字釈」)まで読み、少し間をおいて、第2回目に「行巻」の終わり(「正信偈」)まで読みました。そしてまた間をおきましたが、今度の第3回目で「信巻」を読んでまいりたいと思います。ここであらためて『教行信証』の構成を見ておきますと、その名称のごとく、「総序」のあと「教巻」・「行巻」・「信巻」・「証巻」とつづきます(さらに「真仏土巻」と「化身土巻」がおかれ全六巻となっています)。ところがこの書の正式名はと言いますと『顕浄土真実教行証文類(浄土の真実の教行証を顕わす文類)』で、そこに「信」の字がありません。


これについては次のように考えられます。仏教はもともと「教・行・証」という三法の形式で説かれるという伝統があります。まず釈尊の教えが説かれ、次いでそれにもとづく行が説かれ、そしてその証が説かれるということです。もちろん信も重要な要素ですが、それは行のなかにすでに含まれているものとして比較的軽く扱われていたわけです。親鸞もその伝統に則り『教行証文類』という題をつけたのですが、さてしかし浄土の教えにおいては他の教えと比べて信の重みが格段に違います。浄土の教えにおいても行と信は一体であり、親鸞もここまでのところで「行信」という言い方をし、両者は切り離せないものとして語ってきましたが、浄土の教えにおいて信がもつ格別な重みを考えますと、一体としての「行信」の信の側面に光を当てて一巻を起こさなければならなかったということです。かくして「教・行・信・証」の四法の形式をとることになったわけです。


行と信は一体不離でありながら、しかし行には行としての本質があり、また信には信としての重要な特質がありますから、「行巻」において前者が説かれ、「信巻」において後者が説かれるということです。その辺りの経緯を明らかにするために「信巻」には他の巻にはない「序」がつけられています。『教行信証』全体の序である「総序」と区別するために「別序」とよばれますが、さてそこではどういうことが言われているか、これから見ていくことにしましょう。



タグ:親鸞を読む
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