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ほとけのはからい [『歎異抄』ふたたび(その92)]

(3)ほとけのはからい


「わたしのはからい」はそっくりそのままで「ほとけのはからい」であるという気づきがないところでは(「わたしのはからい」しかないと思い込んでいるところでは)、本願念仏は「ほとけのはからい」であると聞いたときにも、いったい「ほとけのはからい」とは何だろう、そんなものがどこにあるというのだろう、と「わたし」があれこれ思いはからうことになります。しかしこれほど悲喜劇的な倒錯があるでしょうか。本願念仏は「ほとけのはからい」であると聞いて、それはどんなはからいなのかと「わたしがはからう」のですから。


「ほとけのはからい」は気づきであるということ、ここにすべての鍵があります。気づきというのは、これまでいやと言うほどつかってきた言い回しでは「むこうからゲットされる」ということです。「ほとけのはからい」はこちらからゲットしようとしてもどうにもなりません。自分の影を踏もうとするのと同じで、こちらから追いかけるだけ、きっかりそれだけ逃げていきます。ところがあるときふと気づくともうすでにゲットされていて、そのとき「ああ、もう“ほとけのはからい”のなかにあるじゃないか」と思い至るのです。


さて「わたしのはからい」がそっくりそのままで「ほとけのはからい」であるという気づきについて、きっとこんな疑問が出されることでしょう。「わたしのはからい」には善悪さまざまあるが、それがすべてそのままで「ほとけのはからい」であるというのはどういうことかと。「わたしの善きはからい」が実は「ほとけのはからい」であるというのは納得できても、「わたしの邪悪なはからい」もまた実は「ほとけのはからい」というのはどうにも腑に落ちないということです。たとえば誰かが「あいつを殺してやろう」とはからうのも、実を言えば「ほとけのはからい」であるというのはどう理解すればいいか分からないと。


世のなかには、これはとても人間の仕業とは思えないような悪がありますが、それもまた「ほとけのはからい」とはどういうことでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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