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作にあらず非作にあらざる [「『証巻』を読む」その72]

(9)作にあらず非作にあらざる

中観派の曇鸞ならではのきわめて抽象的な議論が展開されています。「一法句とは清浄句であり、そしてそれは真実の智慧であり、また無為法身である」という『浄土論』のことばを解きほぐそうとして、まず真実の智慧について、それは「実相(真如)の智慧」であるから無知であると言います。この無知というのは、分別する知ではないということで、真実の智慧(真智)は無分別智であるということです。そして「無知のゆゑによく知らざることなし」と言います。また無為法身については、それは「法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり」とし、「無相のゆゑによく相ならざることなし」と言います。無知であるからこそよく知ることができ、無相だからこそさまざまな相をとることができるということ、ここにこの段の核心があります。

これまでの流れをふり返っておきますと、浄土の荘厳は法蔵菩薩の願心を因とするのであり、浄土の国土・仏・菩薩のすばらしいありようはみな法蔵菩薩の願心が表現されたものであることが説かれてきました。いまは還相回向がテーマですから菩薩に焦点を合わせますと、還相の菩薩のすぐれたはたらきもまたその本をたどれば法蔵菩薩の願心を因とするということです。そしてここでその還相の菩薩のすばらしさをあらわすものとして、菩薩の智慧は真実の智慧であること、菩薩の身は無為法身であることが述べられ、真実の智慧は「無知のゆゑによく知らざることなし」であり、無為法身は「無相のゆゑによく相ならざることなし」であるとされるのです。

「無知のゆゑによく知らざることなし」はさらに「智慧は作にあらず非作にあらざる」と言われ、「無相のゆゑによく相ならざることなし」はさらに「法身は色にあらず非色にあらざる」と言われます。「智慧は作にあらず非作にあらざる」とは「智慧は非作であるがゆゑによく作であらざることなし」ということで、「法身は色にあらず非色にあらざる」とは「法身は非色であるがゆゑによく色であらざることなし」ということです。これでも、まだあまりに抽象的ですので、できるだけ具体的な場面に引きつけて考えてみたいと思います。


タグ:親鸞を読む
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