SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その70) ブログトップ

真理はここにある [はじめての『高僧和讃』(その70)]

(13)真理はここにある

 チルチルとミチルのことが頭をよぎります。青い鳥という名のほんとうの幸せがどこかにいるはずだと思い、それをもとめて「わが家」を後にする。でも、どこまでいっても青い鳥は見つかりません。肩を落として「わが家」に戻ってみると、何とそこに青い鳥がいるではありませんか。もうすでに「わが家」にほんとうの幸せがあったのに、それはどこか外の世界にあるはずだと思ってさ迷い歩く。「魂の糧」としての真理も同じではないでしょうか。もうすでにそのなかにいるのに、それはどこかにあるはずだと…。
 ぼくらには「わが家」から外に打って出て、求めるものがあるところをめざすという方向軸がもう骨がらみになっています。人間、どんなところでも行けるでしょうが、どう頑張っても自分がすでにいるところにだけは行けません。ぼくらにできることは、もうそこにいると気づくことだけです。もうここに真理があり、すでに真理のなかにいることに気づく。「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるという真理(「生死はすなわち涅槃」という真理)は努力して手に入るものではありません。もともとその真理のなかにいるのです。ただそのことに気づくだけでいい。
 それが往相はわれらの回向ではなく如来の回向であるということですが、還相も同じです。次はそれを詠います。

 「還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に回入(えにゅう)して 普賢(ふげん)の徳を修するなり」(第36首)。
 「還相回向ということは、衆生利益のためにとて、ただちに娑婆に戻り来て、普賢の徳を示すこと」。

 仏教では迷いの世界に欲界・色界・無色界の三つがあるとして、それを三有あるいは三界と言います。欲界は文字通り欲の渦巻く世界ですが、色界は欲から離れた清らかな世界、さらに無色界は色つまり形ある物質をも超えた精神的な世界です。これらを諸有と言い、要するに迷いの境界のことです。普賢の徳といいますのは、普賢菩薩の徳、つまり慈悲のはたらきのことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その70) ブログトップ