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火と木 [「親鸞とともに」その39]

(7)火と木

戻りましょう。「帰っておいで」という本願のよびごえが聞こえることが、本願を信じることに他ならないということ、これが問題でした。普通は、何かが聞こえてきたら、その真偽を吟味した上でそれを信じるものですが、本願のよびごえは、それが聞こえることが取りも直さずそれを信じることであるということ、これはどういうことかということです。そこで、本願の信心とは、如来の心(本願)がわれらの心にやってきて、われらの心とひとつになることであり、天親が『浄土論』冒頭で「世尊、われ一心に」と表明した「一心」とはその意味であると述べてきました。「帰っておいで」という本願のよびごえがやってきて、われらの心に沁みつき、本願の心とわれらの心がひとつになる、これが本願を信じるということであり、そこでは本願と信心はひとつになっています。

このことを言い表す絶妙のたとえが『論註』にあります、「火と木」のたとえです。

「たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」。火が本願で、木がわれらの心です。本願という火がやってきて、われらの心という木に点火しますと、もうその火は木を離れることがありません。木を離れることがありませんから、木をよく焼くことができるのであり、そこでは火は木とひとつになっています。これが本願の信心で、曽我量深氏はそのことを「如来、われとなりてわれを救いたまう」と言われます。

このように、「帰っておいで」という本願のよびごえが聞こえることが、取りも直さず、本願を信じることであり、そして先に見ましたように、本願を信じることがすでにつねに往生することです。第十八願成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」とありましたように、「帰っておいで」というよびごえが聞こえたとき、もうすでに帰っているのです。親鸞が手紙のなかで「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言っているのはそのことです。

(第3回 完)


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