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横超の大誓願 [「『正信偈』ふたたび」その63]

(3)横超の大誓願

さてここで大事なことは、天親が「われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と言うのは、それに先立って「尽十方無量寿如来に帰命し、安楽国に生ぜんと願ぜよ」という「こえ」が聞こえているからであるということです。

われらが何かを発信するのは、それに先立って受信しているからというのは、道を歩いていて誰かとすれ違うとき、見知らぬ人なのに「こんにちは」と挨拶することがありますが、それを考えてみるとよく分かります。そのときその人から「こんにちは」の「こえ」が密かに心に届いているのではないでしょうか。だからこそ見ず知らずの人なのに、顔見知りであるかのごとく「こんにちは」と「こえ」をかけるのだと思うのです。ジャック・デリダという哲学者は、われらが誰かに「アロー(ハロー)」と電話するのは、その前にその人から「アロー」という密かな「こえ」が聞こえているからだと言っています。

そのように、われらが「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰命します)」と発信(称名)するのは、それに先立って「南無阿弥陀仏(われに帰命せよ)」という「こえ」を受信(聞名)しているからです。親鸞は『教行信証』「行巻」において「南無阿弥陀仏」の意味することを注釈し(六字釈と言います)、「『南無』の言は帰命なり。…ここをもつて『帰命』は本願招喚の勅命なり」と言っています。省略した部分で「帰命」という文字を「帰」と「命」に分けてそれぞれの意味を探り、結局のところ「帰命」とは「よりたのめと命ずること」ということ、すなわち本願が「われをたのめと招き喚ぶこと」であると結論しています。われらが「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰命します)」と発信するのは、その前に本願から「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰命せよ)」という「こえ」を受信しているからだということです。

これが第三・四句の「修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す」ということで、天親は『無量寿経』に説かれている本願(横超の大誓願)のもつ意味、すなわちそれは「われをたのめ」という招喚の勅命であることを明らかにしたということです。


タグ:親鸞を読む
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