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『歎異抄』を読む(その49) ブログトップ

7月3日(火) [『歎異抄』を読む(その49)]

 では第3章に進みます。『歎異抄』の中で一番有名な箇所です。まず全体を通して読んでみましょう。
 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。
 善人でさえ極楽往生できるのです、救われるのです。まして悪人ならなおさら往生できます。ところが世の人たちはこう言うのがつねです。悪人でさえ往生するのだから善人ならなおさらだと。この言い分は一応筋が通っているようですけれど、弥陀の本願他力のこころに反します。どうしてかと言いますと、自分の力で善いことをして救われようとする人は、一筋に他力におまかせしようとする気持ちがありませんから、弥陀の本願に沿いません。それでも、自分の力で救いを獲得しようという気持ちを翻して、他力におまかせすれば、真実の浄土へ往生できるのです。煩悩にまみれたわれらは、どんな修行によっても生死の迷いから離れることができないのを哀れんでくださって、願を起こしてくださったその本意は、われら悪人が往生して成仏するためなのですから、他力におまかせするしかないわれら悪人こそ、もともと往生の正客、主賓なのです。という訳で、善人でさえ往生するのだから、ましてわれら悪人はなおさらだと言われたのです。

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