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3月31日(土) [矛盾について(その606)]

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」が、800年後のぼくらに迫ってくるのは、ぼくらがそのことばを「いま」聞いているからです。
 一方、このことばとほぼ同じ意味内容の「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」(『教行信証』)は読むことばです。読むことば(書きことば)に時間の要素は入り込みません。それを書く人も読む人も、いつ書こうが、いつ読もうが、そのことが内容に作用しません。「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」のは、それを親鸞が書いたとき、あるいはぼくらがそれを読むときしか通用しないわけではありません。いつでもどこでも妥当しなければなりません。
 しかし聞こえてくることば(話しことば)にとって、時間は決定的な作用をします。それを話す人にとっても、それが聞こえてくる人にとっても、それが話されているとき、それが聞こえてくるときにだけ生きています。それは生(なま)ものですから、まもなく腐ってしまうのです。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」とは、弥陀の五劫思惟の願が「いま」はじまったということです。「むかしの本願が今はじまる」(曽我量深)のです。そして「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」ということばがぼくらのこころの底まで届いたとき、ぼくらにとっても、800年前のこのことばが「いま」聞こえているのです。

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