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一形悪をつくれども [はじめての『高僧和讃』(その110)]

(12)一形悪をつくれども

 次の和讃です。

 「一形(いちぎょう、一生の意)悪をつくれども 専精(せんしょう)にこころをかけしめて つねに念仏せしむれば 諸障(しょしょう、煩悩のこと)自然(じねん)にのぞこりぬ」(第60首)。
 「死ぬまで悪の人生も、ただ本願を忘れずに、いつも念仏していれば、悪も障りとなりはせぬ」。

 この和讃は、ひとつ前の和讃のもとである「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもって諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ」という文にすぐ続いて「たとひ一形悪を造れども、ただよく意(こころ)をかけて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生をう。なんぞ思量せずしてすべて去(ゆ)く心なきや」とあるのに拠っています。ですから第59首と第60首は一体で、起悪造罪の暴風駛雨のなかにあって一生悪を造り続けても、つねに念仏することでそれが障りとなることはないということです。
 「一形悪をつくる」に引っかかりがあるかもしれません。なるほど悪いこともするが、たまには善いこともするではないかという声がするからです。この講座のなかで、こんなことを言われた方がいました、「浄土真宗というのはどうしてこうも悪を強調するのでしょうね。人間にはもっと明るい面もあるのではないでしょうか」と。しかし、「悪いことばかりではなく、善いことをする」という思いのなかにすでに悪が潜んでいます。「善いことをする」のは「われ」であり、その「善いこと」は「わがもの」であるという驕りがこころの濁りとしてはっきり現れているのです。
 やはり死ぬまで起悪造罪の暴風駛雨のただなかにあると言わなければなりませんが、ここで注目したいのは、たとえ一生悪を造り続けても、その罪は念仏することで取り除かれるとされるところです。

タグ:親鸞を読む
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