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『教行信証』精読(その124) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読(その124)]

        第10回 たとひ大千世界にみてらん火をも

(1)本文1

 龍樹、天親、曇鸞につづいて、今度は道綽の『安楽集』からです。

 『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、父の王1をすすめて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまふさく、仏地の果徳、真如実相第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざると。仏、父の王に告げたまはく、諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつると。父の王、仏にまふさく、念仏の功その状(かたち)いかんぞ、と。仏、父の王に告げたまはく、伊蘭林(いらんりん)の方四十由旬2(ゆじゅん)ならんに、一科の牛頭栴檀(ごずせんだん)あり。根芽(こんげ)ありといへども、なほいまだ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉(だん)することあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽やうやく生長して、わづかに樹にならんとす。香気昌盛(こうけしょうじょう)にして、つひによくこの林を改変して、あまねくみな香美(こうみ)ならしむ。衆生みるものみな希有の心を生ぜんがごとし。仏、父の王に告げたまはく、一切衆生、生死のなかにありて念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念をかけてやまざれば、さだめて仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなはちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとしと。いふところの伊蘭林とは、衆生の身のうちの三毒・三障3無辺の重罪にたとふ。栴檀といふは衆生の念仏の心にたとふ。わづかに樹とならんとすといふは、いはく、一切衆生ただよく念をつみてたえざれば業道成弁するなり。
 注1 釈迦の父、浄飯王。
 注2 長さの単位で、一日の旅程をあらわす。
 注3 三毒は貪欲・瞋恚・愚痴、三障は惑(煩悩)・業(悪業)・苦。

 (現代語訳) 『安楽集』にこうあります。『観仏三昧経』に説かれるには、釈迦が父の浄飯王に念仏三昧を勧められたとき、王は仏に、どうして弟子の私に仏の悟りの境地である真如実相である第一義空を勧められないのでしょう、と問われました。仏はこれに答えて、諸仏の境界はあまりに深く、神通や解脱に至っておられますから、凡夫の行ずる境界ではありません。そこで念仏三昧をお勧めしたのです、と言われます。そこで王は問われます、念仏にはどのような功徳があるのでしょう、と。仏は次のような譬えで答えられます。四十由旬四方の伊蘭の林があり、そこに一本の牛頭栴檀が生えています。しかしまだ根芽だけで、土の下に隠れていますから、伊蘭の林は臭い匂いばかりで、芳しい香りはありません。その華や果を食べれば狂い死にしてしまいます。しかし栴檀の根芽も次第に成長して、ようやく樹になろうとするときには、その香気が非常に強く、林のすべてを芳しい匂いに変えてしまいます。これを見るものはみな不思議の思いに包まれるようなものです、と。仏は王に言われます、すべての衆生が生死の苦しみにある中で、念仏の心が生まれるのも同じことです。ただ弥陀の本願を憶う心がたえなければ、かならず往生し、往生すれば、一切の悪が転じて大慈悲の心となることは、あの一本の香りの樹が伊蘭の林を一変させるようなものです。譬えで伊蘭の林といいますのは、衆生の身にそなわる三毒・三障あるいは限りない重罪のことで、栴檀といいますのは、衆生の念仏の心のことです。また、栴檀がようやく樹になろうとするといいますのは、本願を憶う心がおこり、それがたえなければ、ただそれだけで往生が果たされるということです。

タグ:親鸞を読む
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