SSブログ
『ふりむけば他力』(その82) ブログトップ

近代科学の因果と仏教の因果 [『ふりむけば他力』(その82)]

(6)近代科学の因果と仏教の因果

 ここで本章の冒頭に戻りまして、ここまで見てきました近代科学の因果概念(にとどまることなく、それはわれらの日常的な因果概念でもあります)は仏教の因果概念と同じか違うかという問題にとりかかりたいと思います。ためしに手元の仏教辞典で「因果」を引いてみますとこうあります、「原因と結果のこと、結果を生み出すものを〈因〉といい、その因によって生じたものが〈果〉である」と(『岩波仏教辞典』)。これで見ますと、仏教の因果と近代科学の因果はまったく同じ概念ということになります(仏教では直接的な原因としての因のほかに副次的な原因として縁があり、因縁により果が引き起こされるとしますが、本質的には何も変わりません)。これはこの辞典に限らず、まずほとんどの仏教解説書は因果についてこのように説明しています。
 さてしかしほんとうにそうか。ぼくは仏教に親しみはじめた当初から、どうも変だなという感触をもってきました。そもそも近代科学の因果概念は(そしてわれらの日常の因果概念も)、先のベーコンの例に見られますように、自然を如何にうまくコントロールしてわれらに利益になるようにすることができるかというきわめて実利的な意図と結びついています。つまり自力の原理です。他方、仏教はといいますと、無我を根本原理としています。自分が世界をコントロールするのではなく、逆に自分は世界の因果のなかで生かされていることに目覚める教えです。つまり他力です。これが同じであるはずがないと思いつづけてきました。
 そこであらためて仏教の因果概念の源である縁起の法に立ち返りましょう。前に見ましたように、縁起についての経典のことばとしては、たとえば「これがあればかれがあり、これがなければかれはない。これが生ずればかれが生じ、これが滅すればかれが滅す」などとあります(『小部経典』「自説経」)。これを見ますと、とくに後半などは近代科学の因果概念と見分けがつきません。後半の文を「これが原因として生ずれば、かれが結果として生じ、したがって原因であるこれが滅すれば、結果としてのかれも滅する」と言い替えても何の支障もないように見えます。しかしここで立ち止まって考える必要があるのは、そんなふうに思ってしまうのは、近代科学の因果概念がわれらの骨の髄まで染み込んでおり、それ以外には考えることができなくなっているからではないかということです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その82) ブログトップ