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今は昔 [『ふりむけば他力』(その115)]

(11)今は昔

 このように見てきますと、「わがもの」の物語の外部について、それを「世界の実相」として語るのではなく、純然たる物語として語るのが理に合っていると言わなければなりません。
 前に少し触れましたが、物語には大きく二種類あり、ひとつは「実際にあることとして語られる」物語で、もうひとつは「架空のこととして語られる」物語です。「わがもの」の物語は前者で、各人が「これは〈わがもの〉である」と考えることの上に世の中が成り立っていると語られます。それは、実際にそうであるとして語られますが、あくまで物語であって、「物語られた事実」であることはこれまで繰り返し述べてきた通りです。存在するのは「物語となった事実」あるいは「事実となった物語」だけで、「事実そのもの」、「生の事実」などはどこにもありません。それに対して後者は純然たる物語です。「今は昔、竹取の翁と言ふもの有りけり」ではじまる『竹取物語』を嚆矢とする物語群は、それが実際にあったことではなく、架空の話であることを前提として物語られてきました。
 さて「わがもの」の物語の外部について、それを「縁起」や「無我」として語るというスタンスには大きな危険があります。それが「世界の実相(あるがままの世界)」であるかのように思われてしまうという危険です。すでに述べましたように、縁起や無我ということばは、「あらゆるものには自性がない」ということ、「あたかも自性があるかの如く仮構しているだけである」ということを言うためのものにすぎないのに、何か真実の世界を肯定的に提示しているように勘違いされるということです。それを避けるためには、「わがもの」の物語の外部について、それを純然たる物語、架空の物語として示すしかありません。
 それが「今は昔、法蔵菩薩という方がおられ、世自在王仏のもとで修行されていたとき」と語り出す「阿弥陀仏の物語」です。そして、「わがもの」の物語は「自力の物語」であるのに対して、「阿弥陀仏の物語」は「他力の物語」です。われらは「自力の物語」のもとで生きていますが、あるときそれには外部があることに気づかされます。その外部について語られるのが弥陀の本願という「他力の物語」です。

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