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永遠といま [『唯信鈔文意』を読む(その7)]

(7)永遠といま

 すべては無常です。でも、一瞬(1時間も1年も100年も宇宙の時間尺度からすれば、みな一瞬でしょう)の中に、永遠の輝きがあるのではないでしょうか。一瞬とは別のどこを探しても、永遠は見つからないのではないでしょうか。
 どんなに美しい女性も寄る年波には勝てません。その美しさは次第に褪せていきます。でも若かった一時期の美しさは永遠ではないでしょうか。その美しさは永遠に褪せることなく、例えば写真の中に、あるいはみんなの記憶の中に残るのではないか。いや、写真もいずれ鮮明でなくなり、人々の記憶も段々と薄れていって、ついには時間の襞の中に消えていくと言われるかもしれません。
 でも、クレオパトラや楊貴妃の美しさは時間を超えて伝えられています。「永遠の美しさ」ということばに意味があるとすれば、一瞬の美しさが永遠に伝えられていくということでしかないのではないか。
 さて弥陀の本願ですが、「久遠の弥陀」ということばがありますように、弥陀の本願も永遠でしょう(弥陀と弥陀の本願とは別ものではありません)。でも永遠の本願が姿をみせるのは一瞬のことです。それは十劫のむかしに法蔵の誓願として姿を現わし、釈迦はそれを人々に伝えた。かくして本願は連綿とリレーされていったのです。そのリレーの中にしか永遠はありません。
 法然はあるとき、経堂の中で善導『観経疏』の「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久遠を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」という一文に出遇い、そのとき本願を受け渡されたのでした。この瞬間に本願はリレーされた。この一瞬に永遠が輝いたのです。ここにしか永遠はありません。


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