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2013年11月24日(日) [はじめての『教行信証』(その119)]

 ここで改めて「一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をう」の〈時間構造〉に思いを致しておきたいと思います。
 「一念喜愛の心を発すれば」とは「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」ということで、それは間違いなく時間の一点、一刹那です。「信巻」のことばでは「信楽開発の時刻の極促」。しかしその刹那に永遠が開けるのです。いわば時間に刹那という一点が穿たれることによって、そこから永遠が姿をあらわすということ。
 永遠というものは、時間の一点とは別のどこかにあるのではないということです。弥陀の本願は久遠でしょう。でも、その久遠の本願は、それに遇うことができた刹那に開けるのです。もしその刹那がなければ、久遠の本願などどこにも存在しません。
 「信楽開発の時刻の極促」に久遠の本願が開けます。そしてそのとき「もうすでに」正定聚であったことが明らかになり、さらに「かならず」滅度に至ることを展望できる。かくして永遠を垣間見ることになるのですが、この「永遠の相の下」ではもはや生者と死者の境界がぼやけてきます。
 「永遠の相の下」では、いのちがある・ないなどという区別はもう意味をなさなくなるのではないでしょうか。「わたし」といういのちは、あるとき生まれ、あるとき死んでいくのですが、いのちそのものは久遠の流れの中にあります。
 「わたし」といういのちは生死の迷いをさまよわなければなりませんが、久遠のいのちとしては涅槃寂静の中にあります。これが「生死即涅槃」ということでしょう。生死は生死のままで涅槃であるという不思議。これまで何度もこの不思議について述べてきましたが、久遠のいのちという角度からもう一度味わいたいと思います。

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