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10月6日(木) [矛盾について(その429)]

 以前、「ただいま」が先か、「おかえり」が先かを考えたことがあります。子どもが家に帰るとき、「ただいま」と挨拶して、お母さんが「おかえり」と答える、これが普通でしょう。でも、子どもが「ただいま」と元気よく家に帰るためには、それに先立って、お母さんの「早く帰っておいで」の声が聞こえていることが必要ではないか。その意味では「おかえり」が先で、「ただいま」は後と考えることができます。
 改めて両者の言い分を聞いてみましょう。
 「帰りたい」と心から願うからこそ、「帰っておいで」という声が聞こえてくるのであって、「帰りたい」という願いがなければ、「帰っておいで」と願われていることに気づくことなく終ってしまうだろう。だから「帰りたい」と願うことが先である。
 しかし、そもそも「帰りたい」と願うことができるのは、「帰っておいで」という声が聞こえているからで、その声が聞こえなければ、「帰りたい」と願うことなく終ってしまうだろう。だから「帰っておいで」と願われていることが先である、と。
 鶏が先か卵が先かにそっくりで、「帰りたい」と願うのと「帰っておいで」と願われていることのどちらが先かを争うのも不毛でしょう。願うことと願われていることを切り離すことはできないということです。でも、どちらがより根源的かとなりますと、願われていることが先で、願うことは後です。
 願われているから願うことができるのです。ただ、願いませんと願われていることに気づきません。願うからこそ願われていることに気づくのです。

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