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道綽から善導、そして法然へ [はじめての『高僧和讃』(その211)]

(14)道綽から善導、そして法然へ

 次の和讃です。

 「本師源空の本地をば 世俗のひとびとあひつたへ 綽和尚(しゃくかしょう)と称せしめ あるいは善導としめしけり」(第105首)。
 「本師源空そのもとは、道綽和尚とも言われ、または善導大士とも、世人さまざま伝えたり」。

 法然は「智慧第一」と言われるところから勢至菩薩の化身とされることが多いのですが、ここでは道綽や善導を本地としてこの日本に生まれてきたと詠われます。善導を本地とすることについては法然みずから「偏依善導」と言っていることから当然でしょうし、道綽についても善導の直接の師に当たることからおのずと了解できることです。道綽から善導へ、そして法然へという太い線があることはさまざまなところからうかがい知ることができます。『選択集』が日本浄土宗の独立を宣言するにあたり、その冒頭の章に「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」をもってきていることに、道綽の掲げた浄土門の旗を善導が受け継ぎ、それを自分が日本に引き継いだのだという強い意識が感じられます。
 この道綽・善導・法然の流れを貫くものとして『観経』中心主義を上げなければなりません。『観経』は『大経』や『小経』よりも遅く(おそらく西域で)成立し、南北朝時代の中国に入ってくると中国仏教界に大きな影響を与えたと言われます。道綽はそうした状況において『観経』中心の浄土教を説くようになります。彼の『安楽集』は『観経』の注釈書として書かれたものです。この傾向は弟子である善導にそのまま受け継がれ、善導もまた『観経』中心の浄土教をかたちづくっていくことになります。善導の主著は言うまでもなく『観経疏』であり、そして、法然がそのなかの一節「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業となづく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」に目を覚まされたことはこれまで何度も述べてきました。
 このように『観経』に依拠する浄土教の大きな潮流がかたちづくられ、それが日本の浄土教へとつながっていることが分かります。

タグ:親鸞を読む
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