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聖覚という人 [『唯信鈔文意』を読む(その3)]

(3)聖覚という人

 本題に入る前に、まだいくつかのことを述べておかなければなりません。まず聖覚という人物についてです。先ほども言いましたように、聖覚は法然の専修念仏を受け継ぐ重要な人物とされます。法然の伝記(『法然上人行状絵図』)の中に、「上人亡き後、誰に教えを乞うべき」という質問に、法然が「それは聖覚である」と答えたという話が出てきます。
 まあ宗祖の伝記というのは、その宗派の事情が大きく左右するものですから、そのまま受け取ることはできませんが、少なくとも法然の主だった弟子たちの中に聖覚を重要な人物とする見方があったことは間違いありません。そして親鸞もまた同じ見方をしていたのは先に述べた通りです。
 しかし聖覚にはもうひとつの顔があります。延暦寺のエリート僧という顔です。彼は1167年生まれですから、親鸞より六歳年長ということになりますが、あの藤原信西(一時期政界にときめき、平治の乱で殺された人物)の孫にあたり、唱導(説教のこと)の名人と言われた澄憲の息子で、延暦寺の中で高い地位にありました。
 ここから聖覚の微妙な立場をうかがうことができます。延暦寺は興福寺とともに専修念仏弾圧の中心勢力であったことはよく知られていますが、その延暦寺の指導的な学僧としての聖覚は、法然の門流との関係において容易ならざる立場にあったということです。
 衝撃的な事実が明らかにされました(平雅行著『親鸞とその時代』)。聖覚が嘉禄の法難(1227年)において専修念仏を弾圧すべしと要求したというのです。嘉禄の法難といいますのは、承元の法難(1207年)で専修念仏が禁止されたはずなのに、またもや勢いを増してきているのはけしからんと延暦寺が改めて専修念仏の弾圧を朝廷に求めたのです。
 嘉禄の法難の結果、隆寛ら三名が流罪とされるとともに、法然の『選択集』が禁書とされ、その版木が押収されています。それを求める側に聖覚がいたということは、これまでの聖覚像を大きく揺さぶる事実と言わなければなりません。親鸞が「法然聖人の御をしへを、よくよく御こゝろえたるひとびと」として上げた聖覚と隆寛が、かたや弾圧する側、かたや弾圧される側にいたということですから、容易ならざる事態です。


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