SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その111) ブログトップ

浄土真宗に帰すれども [親鸞の和讃に親しむ(その111)]

第12回 正像末和讃(4)

(1)浄土真宗に帰すれども(これより悲歎述懐讃)

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし(第94首)

まことの教えに帰したとて まことのこころあるじゃなし 虚仮にまみれた身とこころ 清浄なんてかげもない

親鸞は最晩年(86歳)に著した『正像末和讃』の、しかもその最末尾に「悲歎述懐讃」を十六首載せています。ここに親鸞という人の本質がこの上なく露わになっていると言うべきでしょう。彼は本願に遇えた慶びを思うにつけ、おのれのなかに巣くう虚仮・不実を悲歎し、それを述懐せざるをえないのです。親鸞は『教行信証』の後序に「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦(建仁元年、1201年)、雑行を棄てて本願に帰す」と記していますように(自身のことを語らない親鸞が、ここでは例外的に饒舌に語っています)、29歳のときに「浄土真宗に帰す」のですが、それから60年近く経た今なお「真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と詠うのです。

正信偈に「摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」とあることが想い起こされます。弥陀の光明に摂取され、無明の闇は晴れたはずなのに、その信心の天は依然として貪愛・瞋憎の分厚い雲に覆われているというアンビバレンツ。無明の闇とは我執の闇に他ならず、そして我執とは「わたし」に囚われていることです。何ごとも「わたし」あってのものだねという思いに囚われていることです。弥陀の心光に摂取されることにより、その囚われに気づくことができたのですが、さてしかし、だからと言って囚われが消えるわけではありません。

普通は囚われていることに気づきますと、もう囚われから抜け出ていますが、「わたし」への囚われはそこが実に微妙で、「ああ、これは囚われだ」と気づきながら(その意味では無明が晴れていながら)、依然として囚われています(我執の闇のなかにいます)。逆に言いますと、囚われていながら、でもそのことにはっきり気づいているのです。これは言ってみれば、片足を囚われという棺桶の中に突っ込みながら、もう片足は棺桶の外にあるという引き裂き状態と言わなければなりません。これが「日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」ということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その111) ブログトップ