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はじめての『教行信証』(その128) ブログトップ

2013年12月3日(火) [はじめての『教行信証』(その128)]

 さてしかし、仏といい、浄土といいますと、どうしてもそれを実体として見てしまいがちです。ここを去ること十万億土に極楽浄土があり、そこに阿弥陀仏がおわすと。ちょうど名古屋から東京へ行くように、娑婆から浄土へ行き、そこで仏となるというように理解してしまいます。
 経典にはそのようにしか解釈できないような書き方がしてあるのですが、それはあくまで方便であって、ほんとうの仏や浄土はそのようなものではないということを親鸞としては是非とも言わなければなりません。仏と浄土が「未来」であるということの意味を説き明かす必要があるのです。
 かくして真仏土巻が書かれたわけですが、まず『無量寿経』から第十二願と第十三願が引かれたあと、『涅槃経』からかなりのボリュームの引用があります。その中に次の一節があります。
 「世尊よ、仏性は常住(不生不滅)で、虚空のようです。どうして如来は仏性について未来と言われるのでしょうか。(中略)よろしい、あなたはよい問いを発してくれました。仏性は虚空のようです。ですから過去でも未来でも現在でもありません。(しかし)すべての衆生には三種の身があります。それは過去・未来・現在です。そして衆生は未来において煩悩のない清浄な身となって仏性を見ることができるのです。こうした理由で私は仏性を未来と述べたのです。」
 『涅槃経』のもっとも重要な思想として、「仏性は常住である」こと、そして「一切の衆生に仏性がある」ことを上げることができます。われら衆生は無常(時間)の世界に生きているが、仏は常住(不生不滅)であること、そして一切の衆生に仏性があるということ、ここにはさまざまな謎があります。そこで弟子の迦葉(かしょう)が釈迦に問うのです、「世尊は仏性は常住であると言われ、それは未来だとも言われますが、これをどう理解すればいいでしょうか」と。

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