SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その124) ブログトップ

一心 [はじめての『高僧和讃』(その124)]

(11)一心

 並べる順番の差などではなく、他力と自力の位相の差であるということをはっきりさせるために「一心」が持ち出されます。「一心」とは、善導が「一心にもはら弥陀の名号を念じて」と言うあの「一心」で、まじりけのない信心のことです。さあしかし、この「一心」ということばもまたぼくらを誤ったイメージに誘う魔力があります。一心不乱と言いますように、「わたし」がこころを一つに集中させるというイメージです。「専修」と同じように、このことばも自力と切り離しがたく結びついているのです。
 ここで改めて確認しておきたいのは、信じるこころといいますのは、「みずから」つくりだせるものではなく、「おのずから」そうなるものであるということです。
 本願を信じるというのは、本願に気づくということに他なりません。本願に気づいて、そののちに信じるのではありません、気づいたことがそのままで信じることです。そして、気づきは「わたし」に起こりますが、「わたし」が気づきを起こすのではありませんから(9)、本願を信じるこころも、紛れもなく「わたし」に起こりますが、決して「わたし」が本願を信じるこころを起こすのではありません。本願を信じるこころは「みずから」起こすのではなく、「おのずから」起こるのです。
 最後に「一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし」と言われるのも、そこから自然に了解できます。もし本願を信じるこころを「みずから」起こすのだとしますと、「仏恩報ずるこころ」は生まれないでしょう。信心は自分の手柄となるからです。でも信じるこころが「おのずから」起こってきて、それが大きな喜びとなるとき、「あゝ、ありがたい」という思いが湧き上がることでしょう。そしてその喜びが南無阿弥陀仏の声として口をついて出る。これが称名念仏です。
 念仏とは「みずから」南無阿弥陀仏と称えることではありません、「おのずから」南無阿弥陀仏が口をついて出ることです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その124) ブログトップ