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「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」 [「『証巻』を読む」その43]

(2)「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」

親鸞の読みは如何にも不自然と言わざるをえません。文の前半の主語は諸有衆生であるのに、「至心回向」の主語はとつぜん法蔵菩薩となり、そして「願生彼国」以下の主語はまた諸有衆生に戻るというのはどうにも不規則です。しかし親鸞としてはどうしてもそう読まなければならない論理的な必然性があるのです。通常どおり「至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」と読みますと、回向するのも願生するのも「わがはからい」ですが、われらが回向し願生したからといってどうして「すなはち往生を得」などと言えるでしょう。しかし「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」と読みますと、法蔵菩薩がかねてから「至心に回向し」て、われらの往生を願ってくださっているのです。だからこそわれらも願生することができるのであり、そして「すなはち」得生することができるのであることが明らかになります。

それと同じように、法蔵菩薩がかねてから「回向を首として」「衆生を抜いて生死海を渡せん」と願ってくださっているからこそ、われらもまた「一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへし」めようと願うことができるのです。頭に浮ぶのが宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)ということばです。このことばには有無を言わさぬ真実を感じさせられますが、それは賢治がこのことばを言うのに先立って如来が「衆生を抜いて生死海を渡せん」と願ってくださっているからに他なりません。賢治は如来のこの願いに目覚めたからこそ、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言うことができたと言わなければなりません。

としますと、われらの願いの底の底に如来の願いがひっそりと息づいているということではないでしょうか。われらは普段そんな願いがあるとは思いもよらず、ただひたすら自分勝手な「わが願い」をかなえようと必死になっているのですが、あるときふとその奥に如来の願いがひそんでいることに思い当たるのです。これは、すっかり忘れていたこと、忘れたこと自体を忘れ果てていたことを突然思い出すのによく似ています。そのとき「ああ、そう言えば」と思い当たるように、ふと如来の願いに気づいて「ああ、これがほんとうの願いだ」と思い当たるのです。


タグ:親鸞を読む
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