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断四流 [「信巻を読む(2)」その38]

(3)断四流

先に「横超断四流」の「横超」についての自釈がありましたので、次に「断四流」についての自釈です。

断といふは、往相の一心を発起するがゆへに、生(卵生・胎生・湿生・化生の四生)としてまさに受くべき生なし。趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡し、果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有(欲界・色界・無色界の三界)の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。四流とはすなはち四暴流(欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流で、四つの激しい煩悩の流れ)なり。また生老病死なり。

『大経』には「五悪趣を截り」とあり、『観経疏』では「四流を断つ」とあります。いずれも「生死の流れを断絶する」ということで、生老病死を果てしなく繰り返す輪廻転生を断つということです。『高僧和讃』に「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の新光摂護して ながく生死をへだてける」とありますが、この「生死をへだてる」ことが「五悪趣を截り」、「四流を断つ」ことです。唯円は『歎異抄』の第15章でこの和讃について、これは「信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし」という意味だと解説し、決して今生においてさとりをひらき仏となることではないと釘をさしています。当時、この和讃を根拠に念仏すれば今生に成仏できると唱える人たちがいたと見えます。

まず考えておきたいのは輪廻ということです。輪廻を断つことが解脱であり、仏教はそれをめざすとされるのですが、さてそもそも輪廻とは何でしょうか。この思想はインドに古くから伝えられ、それが仏教にも取り入れられたのですが、いのちあるものは形を変えながら生死をくり返すということです。いのちあるものは必ず死を迎えますが、それで終わりではなく、また生まれかわるというのです。そしてその生まれ方も生まれる世界もさまざまで、本文に出てきましたように、四生・六趣を経廻ることになります。仏教もこれを取り込んだのは確かですが、しかしどのように取り込んだのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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