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慶喜(きょうき)と歓喜 [「『正信偈』ふたたび」その96]

(8)慶喜(きょうき)と歓喜

ここでは「慶喜」と言われ、第十八願成就文では「歓喜」と言われますが、親鸞はこの二つを区別してつかっています。歓喜については第十八願成就文を注釈するなかで「うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」(『一念多念文意』)と言います。「うべきこと」とは「涅槃」あるいは「成仏」のことで、「えてんず」とは「かならず得るに違いない」という意味です(「得」の連用形「え」に助動詞「つ」の未然形「て」がつき、さらに推量の助動詞「むず」が続くかたちです)。まだ涅槃を得てはいませんが、将来必ず得ることになるに違いないということで、だから「さきだちてかねて」よろこぶと言われるのです。

一方、慶喜については「信をえてのちによろこぶとなり」と言います。たとえば『浄土和讃』の「若不生者のちかひゆゑ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」の慶喜につけられた左訓にそうあり、歓喜がこれから得るに違いないことを先だってよろこぶことであるのに対して、慶喜はもうすでに得てしまったとよろこぶことであることが分かります。何を得てしまったかといいますと、直接的には信心ですが、ひいては往生と言うべきでしょう。この和讃で「一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」と言われていますように、往生がもうすでにさだまり、正定聚不退になったことをよろこぶのです(この「さだまる」は「はじまる」の意です)。

このように「これから」えるに違いないとよろこぶのと、「もうすでに」えてしまったとよろこぶのとを区別しているのですが、ここには「未来の涅槃」と「現在の正定聚不退」の関係が示されています。つまり涅槃を「これから」えるに違いないとよろこぶことは、正定聚不退を「もうすでに」えてしまったとよろこぶことであり、逆に、正定聚不退を「もうすでに」えてしまったとよろこぶことは、涅槃を「これから」えるに違いないとよろこぶことに他なりません。このように両者は論理的にはまったく同じですが、実際にどちらに重心があるかと言いますと、「現在の正定聚不退」と言わなければなりません。なぜなら「此(現生正定聚)は、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳ることは出来ぬ」(清沢満之「わが信念」)からです。


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