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いまに十劫をへたまへり [『浄土和讃』を読む(その12)]

(2)いまに十劫をへたまへり

 讃阿弥陀仏偈和讃冒頭の「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」から考えたいのは「永遠といま」についてです。弥陀の本願は「十劫のむかしから」だと言うものの、本願は「いま」遇わなければどこにも存在しないということです。曽我量深氏はそれを「むかしの本願がいまはじまる」と表現しましたが、このことに思いを潜めてみたい。
 ニュートンは万有引力を発見しました。二つの物体は、どんなものであれ、その質料の積に比例し、その距離の2乗に反比例する力で引き合っているというのです。この力も本願力と同じく、永遠の存在に違いありません。ニュートンが発見したから存在するようになったのではなく、悠久のむかしから働き続けてきたはずです。このように、万有引力も本願力も一人ひとりに働き続けていますが、万有引力はそんなものを知る由もない赤ちゃんにも働いているのに、本願力は誰かが「いま」遇うことがなければどこにも存在しません。この違いはいったい何でしょう。
 万有引力も本願力もわれらの身の上に働いているはずですが、万有引力はそれを実感することはありません。なるほどその力が働いているからこそ地球にしっかりつかまえられているのだと了解できますが、力そのものを感じることはありません。一方、本願力は「いまわが身に」まざまざと感じます。だからこそ、それが嬉しくて「仏恩報ずるおもひ」が否応なくおこるのです。
 本願力とは「いまわが身に」働いている作用以外の何ものでもありません。それに対して万有引力は、それを「いまわが身に」感じることはなく、その力が「いつでもあらゆるところに」あると考えることによりさまざまな物理現象をクリアに認識することができるのです。本願力は「わが身に感じる」ものであるのに対して、万有引力は「客観的に認識する」ものです。

タグ:親鸞を読む
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