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「なぜ生きる」 [「親鸞とともに」その9]

(9)「なぜ生きる」

次に「生きることにどんな理由があるのか」という問いについて考えてみましょう。先の問いは「何のために生きるか」を問うのに対して、この問いは「なぜ生きるか」と問います。この問いもまたいつでも誰にでもおこるものではなく、こんなことを疑問に思いもせずに一生を終える人はたくさんいるでしょう。この問いは、生きていることに砂を噛むような思いをしているときに、こんな人生に何の価値があるのだろう、なぜ生きつづけなければならないのか、という形であらわれます。とりわけ死を意識したとき、「いずれ死ぬのに、なぜ生きる」という形をとって意識に上ってきます。「どうせ死ぬことになるのに、この先生きていくことにどんな意味があるのか」という、これまた深刻な問いです。

このように、「なぜ生きる」という問いが出てくるのは、先の「何のために生きる」という問いの場合と同じく、「生きる」ことにクエスチョンマークがついたときです。「生きる」ことが順調に進んでいるときには、こんな問いが出されることはありません。「生きる」ことは、いわば空気のようなもので、普段は意識にのぼることがありませんが、それが希薄になってきたときに、「あれ、何だか苦しいぞ」と意識され、「なぜ生きる」という問題となって浮上してくるのです。

さて、「何のために生きる」という問いも、この「なぜ生きる」という問いも、「生きる」ことを采配しているのは「わたし」であるという前提があります。「生きる目的」を設定するのは「わたし」であり、「生きる理由」を見定めるのも「わたし」であると考えられています。「わたし」が「生きる目的」や「生きる理由」を与えるということです。ところがこれらの問いは、その「生きる目的」や「生きる理由」が希薄になったときに浮上してくるのですから、そもそも問い自体に無理があると言わなければなりません。目的や理由が見いだしがたくなっているのに、それは何かと問うても、うまく答えられるはずがありません。目的や理由があるときには問題とされることがなく、それらがなくなってから「何のために」とか「なぜ」とか問うのですから、これは何とも不条理な問いと言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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