SSブログ
「信巻を読む(2)」その141 ブログトップ

(7)蟪蛄春秋を識らず [「信巻を読む(2)」その141]

(7)蟪蛄春秋を識らず

では十念とは何か。念仏とは「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念」するとき、すなわち「ほとけのいのち」(本願)に遇うことができたそのとき、その喜びが口からほとばしり出ることに他なりませんから、「ただ念を積み相続して他事を縁ぜざれば、すなは罷みぬ。またなんぞ仮に念の頭数を知ることを須ゐんや」と言わなければなりません。そのことを言うのに、曇鸞は「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」ということわざを持ってきます。ひぐらしは春も秋も知らないから、夏を知るわけがないということ、すなわち夏に生まれ夏の間に死ぬから、それが夏であることを知る由もないということです。そのように信心念仏の人も信心念仏のなかにいるだけですから、それがどのような時間であるかを知ることはなく、それはただ仏のみ知るというのです。

このことわざはしかし信心の人をあらわすというよりも、まだ信心のない人のことを言うのにピッタリではないでしょうか。すなわちまだ「ほとけのいのち」に遇う(気づく)ことがなく、「わたしのいのち」に囚われたままの人は、生まれてこの方ずっとその囚われのなかを生きてきたのですから、自分が囚われのなかにいることを知らないということです。このいのちは「わたしのいのち」であり、わたしの裁量で生きるものだと思い込んでいて、それが囚われであるなどと思ったことがありません。そもそも囚われのなかにある人は、自分が囚われていると思うことはなく、そう思ったときには、その人はもうすでに囚われから抜けています。

あるとき「ほとけのいのち」の気づきが「ほとけのいのち」からもたらされますが、そのとき同時に「わたしのいのち」に囚われていることに気づき、その囚われからはじめて抜け出ることができます。「わたしのいのち」から抜け出るのではありません(それは死ぬときです)、「わたしのいのち」への囚われから抜け出るのです。「あゝ、これまでずっと『わたしのいのち』しかないと思い込んでいたが、『わたしのいのち』はそのままですでに『ほとけのいのち』ではないか」と気づくのです。かくして「わたしのいのち」を生きながら、もう「わたしのいのち」に囚われることなく生きることができるようになります。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その141 ブログトップ